萬福寺の本尊・境内

ご本尊

阿弥陀如来像

木造阿弥陀如来立像

旧本尊は明治30年の火災で焼失したため、

現在の本尊は、

茅ヶ崎市小和田の阿弥陀堂(真言宗千手院)の本尊を移入したとされる。

お内仏

阿弥陀如来像

黒仏と称し、廓然寺(葛飾区立石→明治初期に廃寺)の本尊であったとされる。

萬福寺と廓然寺の関係は以下のとおり。

 

 

仙舟<廓然寺第6代>

ソノ(仙舟の娘)—荒木良空<萬福寺第23代>

ヤエ(仙舟の娘)—法仙<廓然寺第8代>

荒木良月<萬福寺第24代>(ヤエと法仙の息子)

荒木良正<萬福寺第25代>

荒木良和<萬福寺第26代> 

 

つまり、現住職の曾祖母は廓然寺から萬福寺へ嫁ぎ、

祖父は廓然寺から養子に入ったということになる。

廃寺にあたり、本尊を血縁の深い萬福寺へ移入したのだろう。

 

 

太子堂

太子堂
聖徳太子象

平成15年(2003年)に、開基源海が親鸞聖人より譲られたと伝えられる太子像を安置するために建立された。

現在の太子像は太子堂建立と同時期に作成されたもの。

 

親鸞聖人像

親鸞聖人像

昭和57年(1982年)6月建立。

 

梵鐘

梵鐘

昭和58年(1983年)10月に建立された。

梵鐘外周には佛子・文学博士の服部清道氏による以下の文章が刻まれている。

 

「人の世は法縁によって成り、

信心の結衆は佛縁の凝るところなり、

茲に鵠沼山萬福寺の結衆

報恩の信心を傾けて、

御佛の宝前に鴻鐘を懸け奉る。

不朽の作善と言うべし、

抑當山は源海が草創なり。

源海は宗祖聖人の直弟東関六浄侶中にして、

武州荒木より化益を廣く甲相駿豆州に布き、

宗祖外孫唯善が鎌倉常盤郷に、

祖像を安置東国化益の拠点とせし因をなす。

その後寺運盛衰あり。

江戸時代初め十三世紀良意出て、

寺基を中興し梵鐘を懸て、

画龍点晴の威を添う。

その後回禄あり、堂宇悉く亡ぶ、

後嗣よく諸堂を復し、

二十一世良諦檀越を募ること数年、

文政九年梵鐘を回復。

法嗣良因本堂を再建し一山整う。

良空またよく幕末維新時の苦難を凌ぎ、

良月古刹廓然寺より養子して法燈を嗣ぐ。

二十五世良正はその実嗣なり。

その間、人災より梵鐘絶ゆ。

大東亜戦の軍需供出なり。

今師和純にして佛典の傍史書を好む。

護法の念篤く、報恩念佛に精進す。

さきに一山門徒の維持を得て、

本堂を新にし、山門を興こし、

庫裡を整のえ、今茲に梵鐘を復す。

それ梵鐘は印度祗園精舎に発し、

抜苦與楽の功徳あり。

この宝前の結衆斉しく

利益に浴すること必定なり。謹んで識す」

(※句読点は適宜付けた)

 

龍の水口

龍の水口

昭和61年(1986年)10月建立

源海上人碑

源海上人碑

「源海精舎跡 板碑出土地」と記載がある。

戦没者慰霊碑

戦没者慰霊碑

平成7年(1995年)8月15日の太平洋戦争終結50周年にあたり建立された。

 

歌人の碑

歌人の碑

平成6年(1994年)10月、

第23世住職良空(明治28年1月30日亡)の100回忌に当たり建立された。

良空は俳号を蕉窓と称し、鵠沼の俳諧グループ「鵠沼連」のメンバーだった。

肖像並びに句は『俳諧画像集』(江東区芭蕉記念館所蔵)による。

「雛持て 飛びなの噂や 市もと里」

 

公害問題の記念碑

記念碑

昭和63年(1988年)5月21日建立。

 

昭和34年(1959年)に萬福寺西隣に設立された、日本電子硝子の工場による公害問題について記載されている。

この公害により、萬福寺も木が枯れる等の被害を受けた。

前住職荒木良正はこの公害闘争で終始指導的立場にあり、会合などに寺の施設を提供するなどの関わりがあった。

 

飯盛女の墓

飯盛女の墓

藤沢宿にあった旅籠(はたご)の「大磯屋」を営んでいた杉山家の墓、

中には飯盛女(めしもりおんな)の墓もある。

飯盛女とは、その名のとおり、江戸時代の宿場で給仕を行う、現在の仲居と同じ内容の仕事に従事したものである。

しかし一方で、一部には私娼(公の営業許可を与えられていない娼婦)の役割もあったとされ、

飯盛女が亡くなると、投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常であった。

萬福寺や、藤沢市本町にある永勝寺(浄土真宗本願寺派)には飯盛女の墓があり、

どんなものをも見捨てないという、阿弥陀仏の教えを中心とする真宗寺院ならではの光景かもしれない。