萬福寺の歴史

萬福寺本堂

鵠沼山(こうしょうざん)萬福寺は、

院号は清光院といい、

関東六老僧の一人

荒木源海が寛元3年(1245年)に創建したと伝えられる

真宗大谷派の寺院です。

  

武蔵国の武家であった源海は

自身の二人娘を相次いで亡くし

大きな悲しみを抱え

江ノ島の岩屋に籠って

ひたすら救いの道を求めました。

 

その時、夢の告げを得て

稲田の草庵を訪れ

親鸞聖人の弟子となられたのです。

 

その後、聖人が京都へ帰られると共に

京都に移って聖人に給待し

晩年、武蔵国へ戻り

現在の地に萬福寺を建立したと伝えられています。

 

 

そこには

一人の人間の大きな悲しみと

悲しみを仏縁として、親鸞聖人の教えと出遇っていくことを願った

人々の大きな流れがあったのだと思います。

 

この鵠沼の地に萬福寺があるということは

その流れが、尽きることなく

今に続いているということです。

 

萬福寺のご本尊

阿弥陀如来は

私たちが仏の教えを求める

その時を

ずっと待ち続けてくださっています。

 

 

<沿革>

   寛元3年 (1245年)荒木源海が創建

   文亀2年 (1502年)火災で焼失

   永正5年 (1508年)再興

   享禄元年(1528年)小田原北条氏綱より弾圧を受け、萬福寺は破却される。

   享保3年 (1718年)に没した良意(萬福寺中興祖)によって再建されたが、明治30年1897年)9月に焼失した。

その後、昭和3410月に現本堂が再建され、現在に至る。

 

 

 

荒木門徒について

萬福寺正門

萬福寺の正門には、

左の門柱に「関東六老僧 荒木万福寺」の文字が見られます。

 

「関東六老僧」とは、三省堂の『大辞林』を引いてみると、

「真宗で、親鸞の六人の高弟」

とあります。

 

六老僧の六人は諸説あるようですが、以下の六名のようであります。

 

武蔵 荒木源海(荒木萬福寺)真宗大谷派

甲斐 等々力源誓(等々力山萬福寺)浄土真宗本願寺派

相模 野比明光(野比最寶寺)浄土真宗本願寺派

相模 山下了源(京都仏光寺)真宗仏光寺派

武蔵 麻布了海(麻布善福寺)浄土真宗本願寺派

常陸 下妻明空(下妻光明寺)真宗大谷派

 

※明空ではなく、三河の長瀬専海(岡崎願照寺)浄土真宗本願寺派、とする説もあるようです。

 

萬福寺の開基は、この中の、武蔵の荒木源海と言われています。

この「荒木」という名字は、現在の埼玉県行田市にある荒木(村)からきており、

そこには、「荒木門徒」と呼ばれる、親鸞聖人の教えを受け継ぐ門徒集団がいました。

 

荒木門徒は『親鸞聖人御因縁』と呼ばれた親鸞—真仏—源海と法脈を相承する物語を伝承していたと言われ、

二十四輩の一人である真仏(高田専修寺)を中心に下野国で形成された高田門徒から、

武蔵国の荒木門徒へと、親鸞聖人の教えが伝わっていったことを示しています。

 

さらに荒木門徒は、武蔵国から、

1)相模から甲斐へと展開していった集団

2)東海地方へ展開していった集団

3)近畿から西国へ展開していった集団

 

と大別されるものの、広い範囲に源海を祖とする門徒集団、「荒木門徒」が発生・展開していったと考えられます。

 

萬福寺の住職は、代々、この「荒木」姓を受け継いでいます。

 

「萬福寺」と「万福寺」について

萬福寺中門

 

※正門の門柱には「万福寺」の文字が、正門を入ったところにある中門には「萬福寺」の文字が見られます。これは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているということではなく、歴代の住職がそれぞれに思い入れのある文字をつけられたようでありますが、正式には「萬福寺」であると、私、副住職は教えられてきました。